ハワイアン・シンガーといえば真っ先に思い浮かぶのがアグネス・キムラだ。
ステージでポイボールを軽やかに操るのを見たことがある人も少なくないと思うが、今回のインタビューで、ハワイアンシンガーにとどまらず、ウクレレ、ス ラック・キーを弾き、フラを踊る、その多才な横顔の秘密が少し明らかになった。さらに、アグネス・キムラの「今まで」と「これから」に迫ってみた。
Agnes Kimura(アグネス・キムラ)
77年「大塚龍男とパームセレナーダス」のシンガーとしてデビュー。
同時にプロフェッショナルフラチーム「アロハビューティーズ」のダンサーとしてポリネシアンショーで活躍。以後「クウレイナニ橋本とトロピカーナ」で踊る 傍ら、ジャズコーラスグループ「ザ・シャイニーストッキングス」のメンバーとしてホテル、ジャズクラブ等に出演。「三橋信夫とマウイセレナーダス」「大輪 好男バンド」を経て、現在に至っている。
1990年ホノルルで開催された「スラック・キー・ギターフェスティバル」に外国人として初めて出場。91年ハワイ州知事より「功労賞」を受賞。
98年ハワイで制作発売したCD「Agnes Kimura in tha Hawaiian Style」はワイケレのボーダーズでトップ15入り。同年ハワイでチャリティーショーを成功させる。
2001年に「Chotto Matte Kudasai」、2003年に「My Jubilee」をリリース。
この記念碑的アルバム、「My Jubilee」が「第8回ハワイミュージック大賞」の「International Hawaiian Music Album of the Year」に輝いた。
「踊りのプロになりたくて」
─まず、ハワイアンミュージックを始めたきっかけについてお聞かせください。
アグネス:普通のOLだった頃、ジャズのボーカリストになりたくて、ミュージックスクールでジャズボーカル科の講師をしていた先生の自宅に個人レッスンに通っていたんです。その人が若手ジャズボーカリストのお母さんでムラカミキョウコさんという先生です。
先生の家にレッスンに通い、先生が出演しているお店へ顔を出したりしているうちに、プライベートでも親しくなっていました。そして、その先生からアルバイ トしながらジャズが歌える、というお話があって、紹介されたのが、銀座にあるハワイアンのお店だったんです。
そこのお店では、アルバイトの女の子がハワイアンやタヒチアンを踊って、昼間はサラリーマンのおじさん達がローテーションを組んでバンドをやっていまし た。みんな会社には内緒、もちろん私も会社には内緒です。
タヒチアンの踊りも、ドラムの音も体に響いてくる感じで、はじめて音を聞き、踊りを見た時、とても興奮しましたね。
ジャズを歌うためにアルバイトに入ったのですが、気がついたら踊りにハマっていました。
お店の人達も「若いからやってみるといいよ」と踊りを教えてくれて、1〜2曲覚えると、夏場は即アルバイトでハワイアンショーに駆り出されたんです。
当時、プロのダンサーは1、2グループぐらいしかなかったから仕事もすごくあって、忙しかったですね。お店の子達でジョージ松下さんのバックで踊ったりも していました。
そのうちに、もっと本格的に踊ってみたくなったんです。歌を歌いたというのが、踊りのプロになりたい、というふうに、いつの間にかやりたい事が変わってい たんですね。
そして、その先生に相談したところ、すごくいいバンドがある、と紹介されたのがオオツカタツオとパームセレナーダーズというバンドで、そのバンドとパッ ケージでショーをやっていたのがアロハビューティーズというダンスチームでした。
ちょうど東京でショーをやっているということで、さっそく中野サンプラザにショーを見に行って、楽屋にご挨拶に行って紹介されたんです。
その時にバンドマスターとマネージャーである女性社長に紹介され、「ちょっとバンプをやってごらんなさい。」と言われてやったら、「腰が逆だわね。」と言 われました。『腰が逆ってどういうことかな?私がやってきた踊りは違うのかな?』なんて思ったことを覚えています。
その時、「片山津という所でショーをやってるからいらっしゃい。」と誘われたんです。「考えてみます。」と返事をしたと思うのですが、その時に何と答えた かなどはほとんど記憶がなくて、とにかく楽屋で『腰が逆だ』と言われたことだけははっきりと覚えています。その言葉がいかにショックだったか。
当時のダンサー仲間の中には、結構本格的に踊っていた人も多くて、そういうプロの人達に教えてもらっていたにもかかわらず、「腰が逆」と言われてしまった ものですから。
とにかく、そのグループに入るに当たっては、1回見に行ってみるべきだと思って、片山津温泉に1泊泊まりに行ってみました。
その当時は若いし真っ黒でジーンズの短パンはいて飛行機から降りてくる……みたいな感じで、金髪でヤンキーみたいだった。
ショーはお座敷で千人位収容のハワイアンシアターでやっていました。お客さんは浴衣姿で昔の講堂みたいなステージがあって、ポリネシアンショー、ポイボー ル、タヒチアンから全部やっていました。ポイボールに火をつけて回したのを見た時には、本当にショックを受けましたね。出演者は全部日本人なのにすごい ショーをやっているなって。
当時は今改めて考えると本当にすごいショーをやっていましたね。トエレもみんな生、3台位置いて。アパリマもオテアもあったし。
それを見て、「もうここに入るしかない」と思ったんです。
こんな感じで、ハワイアンの世界に入っていったのが、きっかけでしょうか。
まずは歌ではなく踊りだったんです。ハワイアン、ポリネシアン、タヒチアン、プロのダンサーになりたくなって。
そして、チーム入るにあたっては髪の毛を黒くするよう言われて、髪の毛を真っ黒に染めて行きましたよ。
今度はひとりで1年間行きました。
温泉地ではなぜかあの当時、加賀、片山津、山代、山中温泉とハワイアンショーをいろんな所でやっていましたね。当時の流行りだったんでしょうね。
そこのショーがなぜすごかったかというと、ハワイ出身のカレオさんという人がハワイからバンドを引き連れてショーをやっていたからなんです。そのカレオが 古いものも新しいものもみんな教えていたんです。ハワイの本場の踊りを教えてもらっていたので、踊り自体がすごくレベルが高くて、ショーもとてもちゃんと したものでした。
「ハワイアンの歌がみんな同じに聞こえていた」
当時、メンバーの中で私だけがポイボールを回せなかったので、日本海でポイボールの練習をしたりしていました。
ある時、ジャズをやっていて歌が歌えるなら、ショーの中で1曲位ハワイアンの歌を歌ってよと言われて、歌った事がありました。でも、当時はまだハワイアン の歌がみんな同じ歌に聞こえていて、何がおもしろいのかぜんぜんわかっていなかったんですよ。
Kamalani O KeaukahaとPearly Shellsの2曲だけ覚えましたが、ファルセットが全然使えなかったんです。
ショーの間にKamalani O Keaukahaを1曲歌うコーナーがあって、その後踊りになって……というショー構成でやっていたのですが、緊張でドキドキでしたね。
ダンサー達は、根っからのプロで、みんなホントに踊りがうまかったですね。
1年間ショーに出演しているうちにタヒチアン、マオリなど大体の踊りがひと通りできるようになりました。
歌はどうかというと、当時はまだアグネスキムラという名前ではなく、「相変わらずファルセットが使えないのよね。あの人みたいに歌えればいいのに」と周り の人にいつも言われていました。
例えば、Ke Kali Nei Auの相手役をやらなければいけないのに声が出ないのでキーを下げてもらったり。1年間は歌はダメでしたね。
昼間は練習、夜は1回お客さんのためにショーをやる。そこにはバーがあって、ショーの後バンドごとそこで歌コーナーになって、ウクレレや踊りも少し入れた りしていました。歌も踊りも両方やってはいましたが、歌ではいつも怒られていましたね。
英語の曲は起承転結があってわかりやすいと思っていたのですが、当時の私は、ハワイ語の方はいくらやってもわからなかった。当時こういうのを覚えなさいと 色々聴かされましたけど、ダメでしたね。
そんな感じで1年間修行して、その後東京に戻って福生に1年ぐらい住んで、ダンサーのチームでそこを拠点にあちこちでショー出演の仕事をしていました。そ の後、また銀座のハワイアンのショーをやっているお店に戻って仕事をするようになりました。
そこのお店は、今となってはすごい、そうそうたるメンバーで踊っていたんです。その中のリーダー的存在の人にみんなで踊りを教わったりして、ショーをやっ ていたんですよ。
毎晩とにかくショーをやるお店で、1日のうちに、30分位のショーが2〜3回ありました。
私は、そのお店では、踊りの他に、ハワイアンを歌ってもいました。
そして、お店の他にハワイアンのダンシングチームにも所属、ジャズコーラスグループのメンバーと、踊りと歌で忙しい毎日を送っていました。
どっちが先とも言えないけれど、歌をやってダンスがメインだったり、ジャズコーラスグループとしての活動がメインだけれど、ダンスもしながら……という感 じで、忙しいけれど、楽しくいろんな事をやっていましたね。
「選択の時」
そんな感じでずっと、踊りと歌の両方の仕事をしていました。どんな人でも、仕事やプライベートやいろいろあると思いますが、一度はどちらかを選んで決めな くてはいけないような場面があると思うのですが、私の中でも、いよいよ踊りか歌か、どっちをメインにしようかと決める時があり、フラの先生をしている先輩 に相談したら、『踊りは50になったら踊れないけど、歌は60になっても70になっても歌えるからそりゃあ歌の方がいいわよ』と言われて、『それもそうだ な』と納得して、歌を取ったんです。
でもそうアドバイスしてくれた先生は、今でも先生で現役、おそらく100歳になっても踊っているでしょう!(笑)
そして、歌をメインに活動をしていく事に決めました。その後パームセレナーダーズというバンドに誘われて、そこでスラッキーを覚えたり、ウクレレを改めて そこで覚えました。片山津温泉にいた頃は、ウクレレは全然弾けなかったんですよ。その時のダンシングチームのメンバーはバンドの人から習っていたからみん な弾けたんですけど。片山津の頃は大きな楽屋もちゃんとあってみんなが練習をしていると、何番線の音がちょっと違うとか言っていて、それを聞いて、『何で そんなことがわかるんだろう』と思っていた位、チューニングはもちろん、ウクレレの事も全然わからなかったですね。ダンサー仲間の子達もちゃんと弾けてす ごいな、なんて感心していたくらいですから。
たまたまアルバイトで入ったお店で聞いたトエレの音に心臓バクバク来て、踊ってみたくなったことから始まったんですよね。
銀座のお店でしたし、衣装はすごく凝っていましたよ。
その時の衣装や曲や構成は誰かがハワイへ行って見てきたものを参考にはしていましたが、大体はオリジナルでしたね。ハワイからバンドやダンサーを呼んだり もしていましたし。
今はこういうお店はあまりないんでしょうねえ。
─音楽としては、その当時はハワイアンは第1次ブームだったのですか?
アグネス:そ れはもっとずっと前のことですね。私はその頃、大橋節夫さんもバッキーさんの名前も全然知らなかったんですよ。大橋さんの世代を知っているのは東京の大学 生だったと思いますから、今の60、70、80代ぐらいの人達ですね、私が住んでいたのは田舎だったのもありますし、この世界に入ってから知りました。
今では、ケアリイ・レイシェルのようなアーティストが出てきて、ハワイアンというジャンルが一般にも浸透してきているから、今の若い人達はやりやすいかも しれませんが、私達の頃はそういう意味では逆にハワイアンというジャンルはあまり一般的ではありませんでしたから。
ウクレレも日本の場合はお笑いになってしまって。全然そんな楽器ではないのに。よくも悪くもその世代の強烈なイメージがついてしまっていたのだと思いま す。
そういう自分も、ジャズシンガーの頃はハワイアンは全部同じに聞こえていたんですけれど。
「シンプルで飽きずにずっとやっていられる」
─どこに転機があったのでしょうか?
アグネス:裏声を使いなさいよと言われていて、いつまでもできないのもな、と思って何かひとつ覚えてみようと思ったことでしょうか。
LENA MACHADOのKauoha Maiという曲を聴きながらやってみようと思って、昼間雨戸を全部閉めて思い切り真似るわけですよ。
練習を続けていて、ある時演歌のコブシみたいに回るようになったんです。地声を思いっきり出せば回るんだと、何かコツのようなものがわかったんです。それ から、裏声ばかり真似ているうちに、何となく民謡をひとつ覚えてクリアしたようなもので、できるようになると今度はおもしろくなってきて、それからです ね。
その頃は、ハワイアンをひととおり歌えるようになっていても、曲に感激するようなことはあまりなかったのですが、この世界で長年やっているうちに、やっぱ りいい曲はあるんだなとだんだんわかってきて、今では、いい曲がすごく沢山あり過ぎるとまで思うようになっています。シンプルで難しくないのが自分に合っ ているのかもしれませんね。飽きずにずっとやっていられるということはすごく魅力があるんだと思います。
歌を選んでからは、ずっと踊ってはいませんでした。色も白くなってしまいましたし、ダンサーは絶対若い方がいいという信念がありましたから、30を過ぎた らタヒチアンはやらない、と決めていたんです。今のダンサーは皆30過ぎても凄くうまくて若いけどね。
自分のショーでは自分が歌いますから踊れませんし、若い子達に踊ってもらって。
白くなるとフラを踊るには格好悪いと思っていましたし、フラを習うのはやめてしまいました。今また、数年前から某フラハラウに実は通ってるんですけどね。
フラは10年位やっていたので教える機会もあったかもしれませんが、昔はやっぱり今とは踊り方が違う。昔の方ががんばって腰をダウンさせてみたいな部分 や、私達の頃は言い方もカホロとかカオとかハワイ語ではありませんでしたし。
フラを教えるということに対しては全然その気はありませんでしたし。
─シンガーであり、ギタリストであり、様々な顔をお持ちですが、ご自身ではどれがメインということはあるのでしょうか?
アグネス:最初はスラック・キーは三橋さんにならって、ハワイのオジーコタニさんにも2か月位習いました。
ウクレレはその都度、バンドに入ってたり一緒にやっている人のを見たりして自然に覚えましたね。やはりメインはシンガーだというのが1番で、たまたまス ラック・キーも弾くし、ウクレレも弾くしということです。スラック・キー・ギタリストと言われるとちょっとツライものもありますね。ハワイアンでもクウイ ポ・クムカヒがスラック・キーを弾くけれどスラック・キー・ギタリストとは言わないし、たまたま弾けただけでスラック・キー・ギタリストである、とは自分 ではあまり言わないですね。
「自然にこの世界に入り、今、ここにいる感じ」
─ところで、ハワイにはよく行かれるのですか?
アグネス:初めてハワイに行ったのは26歳の時。
その時はHui Ohana、PETER MOON BAND、まだIZのお兄さんが生きている頃のMAKAHA SONS OF NIIHAUのステージを見ました。すでに兄弟ともに亡くなってしまったので、実際にこのバンドのステージを見ている人は少ないと思うんですよ。
Hui Ohanaも大好きだったので、私の中ではハワイアンというとあのサウンドとギター。その頃の一番のイメージですね。
それからは行ったり来たり。ハワイへは好きで行くというより、黒くなりたくて行っているという時期もありました。冬になると真っ白になるので、グアムやサ イパンにも肌を黒く焼くために行っていました。
特別ハワイにどっぷりハマったりという感覚とはちょっと違っていたかもしれません。
自分の生活の糧が歌ったり踊ったりということだったので、自然にハワイアンの世界に入り、その結果、今の自分がある。
旅行に行ってハワイを好きになるのとは違った感覚になるのでしょうか。
─昔と今と、ハワイアンの世界で環境の変化はどうでしょう?
アグネス:昔はバンドがメインですから、バンドさんありきでしたね。今はダンサーがメインに変わってきたようですね。
若い日本のミュージシャンもこれからの日本のハワイアン界を担っていくという意味でいいと思います。オリジナルをどんどんやっていけばいいんじゃないで しょうか。
女の子もうまい子が沢山いるし頼もしいですね。今の人達はリズム感も音程もいい、土台があるからすごくうまいと思います。
今の男の子はウクレレだけというウクレレ小僧は増えると思うけれど、ハワイアンをバンドでやろうという人はなかなかいないみたいですね。今あるハワイアン バンドがなくなったら、日本ではハワイアンバンドがなくなってしまうかもしれないですね。
逆にそれぞれのフラハラウで、ハウスバンドはできていくと思いますが。
東京ではイベントが沢山あって。ハワイからも沢山ミュージシャンが来日するし、日本の方がコンサートは多いですね。
「自分が好きなことを自然に続ければいい」
─今現在、ハワイアンで表現しているものはどういったものなのでしょうか?
アグネス:今度のアルバムが全てだと思っています。
今までは試行錯誤で、オリジナルの曲を出してハワイアンでもメジャーになりたいという気持があって。オリジナルを作ったけれど、正直難しい部分もあったと 思っています。自分でも、何故かなかなか覚えられないし、なじめないんですよ、変な話。
でも、NA PALAPALAIというバンドが出てきて、彼らのサウンドを聴いた時に、今まで自分が昔から踊ったり歌ったりしていた曲だった。何も新しいことはやって いないけれど、すごくいいと思ったんです。
彼らの曲を聴いて本当に目からウロコが落ちるという感じで、自分がやってきたことを自分ができる範囲でそのままやればいいんだ、という風に思えましたね。 それで、このアルバム「My Jubilee」はサポートミュージシャンなしで全部自分でやってしまったんですよ。
自分が生活するために生きてきたことがこのアルバムの全て。
ハワイアンをどうしたい、ああしたいというのは意外になくて、たまたまそこにいたんだなという感じ。これからもずっとそのままいるから、無理することはな いなと思った。ハワイアンを歌っていること、それ自体が自然体なんだと思ったら吹っ切れましたね。
今まではハワイへ行った時には、トップ10のCDなどを全て買ってきたけれど、今回初めて何も買ってこなかった、あまり買いたいという気持が起きなかった んです。
こういうことをやっていると一生追いかけなきゃいけないんでしょうし、事実これまではそうでしたが、最近はやっと開放された感じがしています。このCDで 初めてそういういう境地に行き着いた感じです。常に新しいものを創り出すことだけが重要なのではなくて、普段の自分の好きな曲をどうやってアレンジするか な、というところにも大切な意味があることを見いだした感じで。
これもNA PALAPALAIのお陰。あの人達の音楽は私にとってすごくよかった。
その前まではイージーリスニングみたいなのがいいのかなというのもありましたけれど、やはり自分の好きなものを、自然にやればいいのだと。
考えてみると、何も温泉街で日本人のバンドがやらなくてもよかったのかもしれないけれど、そういう仕事があった。自分も日本にいてこの世界で食べてきたと いうのも不思議ですが、そういう世界があった。
ジャズの世界はいろいろ大変だけれど、それに比べると何となく生きてこられたのはハワイアンのお陰かもしれないですね。
日本人はハワイが好きだというDNAがあるんでしょうね、たぶん。今や通販やCMの音楽にもウクレレやハワイアンが使われていますよね。こういうところは 他の国とは全然違いますよね。
ジャズコーラスをやっていた頃は、ジャズが一番おしゃれだと思っていました。
ジャズをやめたのは、あまり高い声がでなかったので音程を取るのがきつかったんですよ。2年間やっていたジャズシンガーをやめた時は挫折したという気持が 強かったのですが。
ハワイアンの世界にいられたのは踊りもやっていたからだと思います。
今は意外とバンド的にはいい時代なのではないでしょうか。
今までにこの世界をやめてしまった人もずいぶん沢山いらっしゃるので、自分でも今までよくいられたなと思うこともありますね。
今後、日本ではどうなんでしょう、バンドは少なくなっていくのではないでしょうか。寂しい気もしますが、それはそれでしょうがないのではないかと思います が。
ハワイ語の曲を歌っていくのは大変。好きできっかけでもない限りやらないですしね。
むしろものすごく上手く歌って踊れる男性のダンサーが出てくるかもしれない、なんて思ったりもします。音楽の方からではなく、日本人もフラ留学をしている から、そちらの方で何か新しいものが出てくるかもしれませんね。
─ハワイで好きな場所やおすすめの場所があれば教えていただけますか?
アグネス:今まではプロモーションで行くことがほとんどで、忙しくてどこかでゆっくりというのはなかったので、意外にそういう場所はないんですよ。
「ハワイは誰でも正当に評価してくれるところ」
─今回Hawaiian Music賞を受賞されたハワイミュージック大賞についてお話を聞かせていただけますか?
アグネス:賞状は1枚、トロフィーは意外と重たくてかっこいいでしょ?
どんな賞でも貰えるとうれしいし、ありがたいですね。
授賞式に参加してみて、この賞の雰囲気がわかったのもよかったですし。
次はナホクハノハノアワードを見てみたいなと思っています。
でも、ナホクはハワイに住んでいないと受賞資格がないんですよね。
次のアルバムは、ハワイのミュージシャンメインで作ってみようかな、などと考えています。ハワイでもヒットできるようにして、ハワイに住んでいるミュージ シャンとコラボレーションしてCDを出すというのを。
でも音楽は賞を狙うためにやっているのではないですから。My Jubileeもそうですし。
ただ、ナホクの雰囲気がどういう感じなのかを知りたくなったんです。そのためにどうしたらいいのかな、と考えつつあります。
向こうには住めないですし。根っから和食党だし、根っから日本人だし。
ナホクハノハノは夢ですね。叶わないなりに近づきたい。出席してみたいと思います。
見るだけのツアーはあるらしいから、それで行くってこともありますけど(笑)。
My Jubileeは日本では一般に流通していないので、なかなか買えないんですが、自分の中ではこのアルバムでひとつ区切りがついたので、ナホク狙いという のではなく、次はハワイで全部録音して、向こうでお金を落とそうかなと思っています。
ハワイにはやっぱりMANAがあると思います。前にCDを録った時にも思ったけれど、力が出るんです。
この賞の時もそうだったんですが、演奏でもスピーチの時でも力が出るのを感じましたね。
─アグネスさんにとってのハワイとはどういう所?
アグネス:何かやったことに対して正当に評価がしてもらえる所。自分がやってきたものに対して。
たまたま賞をもらったり、何年か前に州知事から表彰状をもらったりしたのがあるからかもしれないんですが、日本だったら一生かかっても絶対もらえない気が するんです。
ハワイは、年齢とかキャリアに関係なく、すごく普通に見てくれる、そんな場所だと思えるんです。
─興味深いお話をありがとうございました。(2005年4月)
■アグネスキムラオフィシャルホームページ
Agnes Style

