“TWENTY YEARS OF FACING FUTURE” IZについてジョン・デ・メロが語る!INhonoluluより

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ハワイイ最大の音楽レーベル
”マウンテンアップル社”の代表で
名プロデューサー”ジョン・デ・メロ”氏が
発売から20年経ったIZの大ヒットアルバム
「フェイシング・フューチャー」について語った

このインタビューはハワイイのウェブ・マガジン
” INhonolulu ” に掲載されたコンテンツ
http://inhmag.com/

http://inhmag.com/twenty-years-of-facing-future/

8011web.comが翻訳掲載の許諾をもらい掲載する
とても興味深い話しがされている

アンクルS”も5年ほど前に
ジョン・デ・メロにインタビューをおこない
IZの話を聞いた
近いうちにそのインタビューもアップしたい

また、IZとフェイシング・フューチャーのことを書いた
” FACING FUTURE  by Dan Kois ” を
翻訳し出版するプロデュースもおこなっている
そのタイミングでこのインタビューを見つけた

INhonoluluの Will Caron と Karleanne Matthews に感謝する
これからもINhonoluluのコンテンツを随時紹介させてもらう予定だ

(翻訳:Chie S)

 

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TWENTY YEARS OF FACING FUTURE
フェイシング・フューチャーの20年

Will Caron
インタビュー:ウィル・キャロン

Photos by Jimmy Edens
写真:ジミー・エデンス

(太字は原文のまま)

20年前
すでにハワイイアン・ルネッサンスの重要なポジションを占め
ハワイイでは有名なミュージシャンになっていた
イズラエル “ブラダー・イズ” カマカヴィヴォオレが
マウンテン・アップル社から初のアルバムをリリースした

そのレコード「フェイシング・フューチャー」は
今でもハワイイアン・アーティストのベスト・セリング・アルバムであり
イズの名と共にハワイイのコンテンポラリー・ミュージックを世界に紹介し続けている
イズラエルはハワイイアン・ミュージックとハワイイ文化を保存するために奮闘していた
1997年に亡くなっても、彼は人々の心に存在し愛され続けている

フェイシング・フューチャーの発売20周年を記念して
マウンテン・アップル社の創設者でイズラエルのプロデューサー、そして師でもあり
個人的に長年の友人でもあったジョン・デ・メロ氏から
ゆっくり話を聞くことができた

偉大なる作品と類い稀な音楽の才能、そして大きな影響力
それがブラダー・イズそのものである

 

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ウィル・キャロン(W):
イズラエルがミュージシャンとして
またハワイイの文化的アイコンとして
ここまで特別な存在になった理由をお聞かせいただけますか?

 

Jon de Mello (J):  ジョン・デ・メロ(J):
イズラエルは人間味溢れる気遣いの持ち主でした
彼は人が好きで、特に子どもが好きで、子どもを惹き付ける磁石のようでした
人々に向けて何かを発信する仕事が大好きだったのです

「イズラエルの曲を聴くとまずはじめに心が打たれて、耳に入ってくるのはその次なんだ」と
言っていた人がいるほどです
確かに甘く美しく共鳴する彼の声は独特で、ひとりひとりの人に届くのです

そこが鍵だと思います
人が好きだということ
彼は人々に語りかけ、人々は彼の言葉の後ろに隠れた意味を理解することができる
たとえ言葉がわからない人にでも語りかけていました
それが彼の素晴らしいところだと思います

 

W:イズラエルは小さな頃から音楽を始めたそうですが
70年代後半から80年代のマカハ・サンズ・オブ・ニイハウを経て
あなたの協力でソロになりました

ハワイイアンのコンテンポラリー・ミュージックにおける彼の活動の影響力というのは
どのようなものだったのでしょうか?
音楽的な面と、このジャンルをポピュラーにしたという意味
両方をお聞かせ願えますか

 

J:彼は音楽一家に生まれ、家族は皆、楽器を弾いていました
ピアノからウッドベース、ウクレレ、ギターまで

おもちゃやゲームなどなく、ましてや今日のような大型テレビもなかったので
夕食が終わると応接間に行って皆で音楽をやっていたそうです

5歳のときにウクレレを与えられるとそれを手放さなかった
まるで体の一部になってしまったかのようにね

もう少し大きくなると、両親が共働きだったので
彼はよくワイキキの有名なクラブ”スティーム・ボーツ”に行っていて
そこでいつもオーナーやミュージシャンと一緒にいました

エディー・カマエ&サンズ・オブ・ハワイなど偉大なミュージシャン達です
彼らにしてみれば、イズラエルは単なるパンクな少年だったのでしょう

でもそのパンク少年は、皆がしていることをよく観察して真似をしていました
誰もが、あるレベルに達して自分自身の宇宙船を打ち上げられるようになるまでやることです
でも彼は10年そこそこでそのスキルを身につけ
マカハ・サンズ・オブ・ニイハウに入ったのです

(アンクルS”注釈:サンズ・オブ・ハワイのメンバーであった” モエ・ケアレ “が
 イズの叔父だったために出入りできたという)

 

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イズラエルの兄スキッピーがグループのリーダーで
コンセプトを考える担当でした

彼らは3〜4コーラスのなめらかなハーモニーでトラディショナルを歌うグループでしたが
コンテンポラリー・ミュージックとしてもエッジを効かせるようになっていました

当時は皆こういう音楽をやっていたのです
40年代の終わりにエディー・カマエやギャビー・パヒヌイが始めた
ハワイイアン・ルネッサンスとして
またたく間にハワイイアン・ミュージックに変化をもたらした種類の音楽です

マカハ・サンズ・オブ・ニイハウには大きな影響力がありました
そしてイズラエルは、ソロ活動を始める前からハワイイアン・ミュージックをとことん変貌させたのです
その頃になって彼は自分自身の音楽を作りたいと思うようになり、私のところにやってきました

 

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W:ブラダー・イズのプロデューサーになった経緯をお聞かせいただけますか?

 

J:イズラエルと私は、子どもの頃からお互いをよく知っていました
私がやっていたレイ・デー・コンサートによく来ていましたから
ワイキキ・シェルでブラザーズ・カジメロとやっていたコンサートです

いつもイズラエルとはそこで話をしていたのですが…
その後、彼は体調管理のために年に3回ほど入院するようになりました
あるとき、入院中だった彼から相談したいことがあるので病院に来てくれないかと電話がありました
内容はマカハ・サンズをやめてソロでやりたいとのことでした

見舞いに行くと、病室の前に人だかりができていました
病室がから廊下まで人で溢れていました
ベッドから出て、Tシャツも着ないでウクレレを弾いているイズラエルを皆が聴いていたのです

そのとき4〜5時間話をしたと思います
最初の2時間、私はバンド脱退を考え直すよう説得しました
やはりマカハ・サンズ・オブ・ニイハウが持つハワイイアン・ミュージックへの
影響力は絶大だからというのが理由です

そしてもうひとつ
アーティストにとってソロになってからも大物でい続けるのは非常に難しいからです
めったに叶うことではありません
でも彼の思いは揺るぎませんでした

 

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彼は頑固でしたが柔軟でもありました。
彼は私の意見を聞き、私は彼が歩みを進める手助けをしました
彼としては、私の経験を自分のものにしながら大事なコンセプトに関しては
自分で決めたいとい思っていたようです
これが93年の夏のことです

そして11月にはフェイシング・フューチャーをリリースしました

 

W:あなたのレコーディング方法は独特ですよね
よくレコーディングブースに入り込んで録音中のアーティストと向かい合って座っています
それはどのような効果がありますか?
イズラエルとのレコーディングでもその効果は現れていますか?

 

J:はい、いろんなアーティストと、この方法でやっています
今でもね

でもイズラエルのときには2フィートくらい離れたところに座るようにしていました
歌詞やコードの構成など求められたことを手伝いました
イズラエルもすぐに慣れましたよ

彼は歌詞でよく手間取っていました
私のことを「ヨーダ」と呼んでいたのですが、「ヨーダ!ちょっと来て これできないよ」と言うので
私がブースに入って座ると出来るようになるのです
彼はいつも目を閉じて、頭を後ろ側に傾けてレコーディングをしていました

クリック・トラック(メトロノーム)は使わずフリーでやっていました
一度試しに使ってみたら、四角ばってキチキチした音になってしまったので使わなくなりました

 

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昔はよく、プロデューサー兼エンジニアとしてレコーディングに立ち会いました
イズラエルと隣り合って座り
私が「ほんの少し調整したい」と言うと、彼はもう一度演奏しました

そうやって彼がいろいろ試している間も、私は録音を続けていました
彼がさて本番、と言う頃にはもう私の方では欲しかった音が録れていました
この方法でのおかげでレコーディングの作業はどんどん早くなりました

レコーディング初日、私はまっさらなノートをイズラエルに渡し
今までに歌ったことのある曲、歌ってみようと思った曲、歌いたい曲を全て書き出すよう言いました
歌詞やアイディアも全てです

彼は書いてきました
ほとんどノートを埋め尽くすくらいに
やりたい音楽について素晴らしいアイディアを書き込んできました

この時点で彼はこれまでの考え方に捕われない発想でレコーディングに臨む段階に到達しました
それは「出来る限り自分自身が決断する」ということです

私は「ああしろこうしろ」と言うのではなく、彼が進むべき道をアドバイスしただけです
「シンプルにハワイイアンを」というのが私たちの共通した考えでした
それはかなり達成できたと思います
大変な作業でしたが、同時にとても楽しかったですよ

 

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W:フェイシング・フューチャーというタイトルの由来は?
また、このタイトルはイズラエルにとってどのような意味を持つのでしょうか?

J:当時、私の自宅とスタジオがパレフアにありました
マカキロから6マイルほど上がったところで
今は森林保護地区のコオリナ・リゾートがあるところです

海抜3000フィートのそこから見えるパール・ハーバーやダイヤモンドヘッドは
まるで郵便切手の(絵の)ようでした
標高があるので、快晴の日にはハワイイの島々を数えられるくらいです
海沿いよりも10度近く涼しく
創作意欲を高めるにはもってこいの場所でした

1週間ほどレコーディングの作業をしていたある日のことです
週の半ばのよく晴れた美しい日でした
「アルバムカバーの写真を撮ろう」と提案し、彼にクラシックな衣装でポーズを取らせました

最終的に87パターンの異なる写真を撮ったのですが
あの時に現在の状況がわかっていれば
887パターン撮ったでしょうね

でも当時はまだデジタルカメラが普及していない時代だったので
87は充分な数に思えたのです

 

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撮影が半分くらい進んだ頃に、私はこのパフドラムを持っていきました
大きいでしょう

私では持ち上げられないので、転がして持っていきました
上部の直径が3フィートくらい、高さは3フィート半くらいでしょうか
イズラエルが隣に立つと小さなドラムに見えますが、本当はとても大きなパフドラムなのです

この横で彼にポーズを取ってもらい、叩いてみたり、回り込んで立ってみたり
様々なことを試しながら、ダイヤモンドヘッドの方に顔を向けてみてと言いました
そのポーズを、いろいろな角度で6パターン撮影しました

現像して、どんなものが撮れたか確認しました
すると何枚かとてつもなくきれいな写真があったのです
彼の肌が美しい小麦色の陰をつくっていました

前もって毎日プールに入りエクササイズをしていたので
きれいに日焼けをしていました

87パターンの写真はどれも良い写真でした
そしてダイヤモンドヘッドの方を向いたショットを見たとき
私たちは一瞬沈黙しました
そして、私が「ねぇ、まるでなにかと向き合っているみたいに見える
きっときみの未来とだよ
アルバムのタイトルにしたらどうだろう
フェイシング・フューチャー」と言うと
イズラエルは間髪入れずに「いいね、かっこいい」と言いました

 

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W:このアルバムは、幸せも悲しみも込められていると思います
「ヘネ・ヘネ・コウ・アカ」のようなおもしろい曲もあれば
文化的な側面を持つ「マウイ・ハワイアン・スーパマン」もあります
願いを込めた「カウラナ・カヴァイハエ」や、悲劇の歌「ラ・エリマ」も

このような感情の多様性というのは、どこから生まれたのでしょうか?
何らかの意味で、ルネッサンスから生じたハワイイ文化を象徴しているのでしょうか?

J:確かにそれはあります
彼の人生におけるハワイイ文化を象徴しています

これらの曲は彼の人生をベースにして物語っています
歩んできた道のりの中には挫折や絶望もあったでしょう
逆にとても楽しく素晴らしい瞬間もあります

彼はとても楽しい人物でした
「マウイ・ハワイアン・スーパマン」の作者デル・ビーズリーと
イズラエルが一緒にるとき、私は一歩ひいて眺めていました
だって二人のジョークは行ったり来たり、ずっと飛び交っていたからです

確かにこのアルバムにはおもしろくて楽しい曲も入っているし
深みのある重たい曲も入っています
彼の人生の特定の出来事を表現した曲も多く含まれています

このアルバムはハワイイの人々に対する彼の愛情の大きさを表していると思います
兄弟姉妹に対しても深い愛情を持っている人でした

彼にとって階級や民族というものは大した問題ではなかったのです
ハワイイアンと言う言葉は、民族人種以上の意味を持っていました

ハワイイの文化に溶け込んでいたり
ハワイイの大地や価値観に敬意を持っている人であれば
民族人種にかかわらず彼にとっては皆ハワイイアンだったのでしょう

誰でもが自分のプレイリストのようなものを持っていますよね
本当に意味深い曲を聴いてはじめて、自分が人生のどの時点にいたのかを思い出すのです

曲というわずか3分足らずの小さな物語が、私たちの人生のサウンドトラックなのです
フェイシング・フューチャーはイズラエルの幸せと悲しみ
そして激しい情熱と軽やかな心だったのだと思います

 

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W:「サムウェア・オーバー・ザ・レインボウ(虹のかなたに)」と
「ホワット・ア・ワンダフル・ワールド(この素晴らしき世界)」のメドレーはヒットし
このアルバムを広める結果にも繋がりました

この曲を入れると決めたのは最終段階になってからだったというのは本当ですか?

J:この曲は、アルバム14曲中の13曲目に入っています
レコーディングをしたのは
私が一緒にやるようになるより数年も前のことで深夜に録音したものでした

イズラエルがエンジニアに電話をして「いいアイディアがあるから録音したい」と言いました
エンジニアは一日働いたあとでもうくたくただったのですが
「イズラエル、10分でここに来られるなら、時間をあげるから一緒にやろう」と答えました
イズラエルはスタジオに入り、このメドレーをワン・テイクだけやって立ち去ったそうです

(アンクルS”注釈:1988年オーディオリソース・ホノルル・スタジオで
エンジニア:ミラン・ベルトーサが録音した)

 

W:そのカットがアルバムに収録されているのですか?

 

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J:そうです
フェイシング・フューチャーの制作も最終段階になったときに
このエンジニアが「イズラエルの歌です、聴いてください」と言って音源を私にくれました
まず私が聴き、そしてイズラエルにも聴かせましたが、彼はあまり関心がなさそうでした

「まぁかっこいいけど・・」といった様子で
これをアルバムに入れるべきかどうか話し合わなくてはいけない雰囲気でした

古い音源だからか、ワクワクしているようには見えなかったのです
それに歌詞を正しく歌えていないし、間違ったコードのところもあると言うので
そんなことは気にしなくていいと答えました

これはイズのバージョンの曲になっているし
本当に良い出来だったのです

彼の音楽の才能は最高に素晴らしかった
巨漢にしては小さな手でつま弾くウクレレはクラシカルな音を奏で
あっという間に調子を掴んでがっぷりとはまります
その晩もそうだったのでしょう
ワン・テイクでこの素晴らしい曲を歌い上げていました

 

W:この20年で、この曲は世界のどこまで広まったでしょうか?

J:最初に人気が出たのはリリース後、1年くらいのことでした
アルバムの中で特にヒットしたのは「マウイ・ハワイアン・スーパマン」で
「オーバー・ザ・レインボウ」がヒットするまでにも
他の何曲かがラジオで流れたこともあります

でも世界中に広まったのはこの20年ですね
第三世界の国々からカードや手紙が届きます
彼らは今、イズラエルを見つけたのです
長い間、イズラエルが他界していることを知らない外国人も多くいました

 

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W:そうなんですか?

J:休暇でハワイイに来る人たちから手紙がきて
イズラエルのライブを確実に観られる場所はどこですかと訊かれることがあります
そういう方々には、もうイズラエルはいないことをお伝えしなくてはなりません

映画やコマーシャルの効果が大きいのではないかと思います
ウクレレの音が流れ始めるとすぐにイズラエルだとわかるのです

映画やコマーシャルはハワイイアン・ミュージックを世界に届ける
史上最高の運び屋と言えるでしょう
そしてニューヨークのEMIにとっては金の成る木でもありました

ギネス世界記録で、世界で最も人気のある曲として登録されたこともありました
ニューヨークでEMIのこの曲の担当女性とお会いしたとき
イズラエルのバージョンは、EMI社が受けた映画/CMソングの申し込みで史上最多だったと聞かされました
圧倒的だったそうです

「時代がもう1世代進めばジュディー・ガーランドを思い出す人はいなくなるだろう」と言いました
イズラエルがオリジナルだと思うようになるだろうと

 

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W:「ハワイ‘78」は今日、ハワイイで最も人気のあるイズラエルの曲だと思います
ハワイイ州の標語を入れ込んだパワフルな歌詞とイズラエルの堂々たる語り口を聴くと
今でも瞬時に鳥肌が立ち、喉が締め付けられる思いがし、涙が流れ出してくる曲だと思います
この曲を初めて聴いたリスナーは、どう思ったでしょうか?

J:びっくりしていました
パレフアでレコーディングをしていたある晩、たぶん夜中の1時頃だったと思いますが
庭のバンガローで眠りに落ちそうになっていたイズラエルに声をかけました
「聴いてくれよ、あとひとつ聴いてほしいものがあるんだ」

私がイズラエルによく使っていたレコーディング方法がありました
レコーディングのあとの会話を録音するのです
彼を座らせて質問をします

そして私はずっと黙って彼の話を聞きながら録音するのです
個人的なことも聞きました
お父さんやお母さんのこと、そしてスキッピーのことなど

すると彼はおかしそうに私を見て
「どういうこと?スキッピーなら、僕のことよりよく知ってるでしょう?」と言いました

私は、「そうだけど、きみの口から聞きたいんだよ」と返事をしました

たぶん60〜70時間ほど、彼とのおしゃべりを録音しています
そして、その部分部分を切り出して「ハワイ‘78」に差し込みました

 

W:それがイントロの部分ですか?

J:そうです。イントロの部分です
私ひとりでイントロ部分の作業をした晩、初めて彼に聴かせました
私たちはアルバムの作業を期限内に終わらせるために急いでいたので
そのときまで聴かせる時間がなかったのです

私はグリーンのプレイボタンを押しました
初めて聴く彼のために、私は頭を低くしてスペースを作りました
椅子に座って聴いている彼を見上げると細かく震えています
何か怖がらせてしまったかと思いました

もしかすると何かの発作か心臓麻痺でも起こしたかと焦り
こんな夜中にこんな場所へどうやって救急車を呼べばよいか考えたほどです

すると突然、彼が私を見たのです
泣いていました

完全にノックアウトされた状態で彼は言いました
「ヨーダ、もう一度聴かせて、もう1回聴きたいんだ」
そうして私たちは、陽が登るまで何度も何度も繰り返し聴きました
彼は心底感動していました

 

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これはとても人気のある感動的な曲です
神秘的な要素を持っていて
聴いた人は本当に「アリイが戻ってきて現代の暮らしを見たらどう思うのだろう」と思わされます

 

W:ある種、ハワイイ文化とハワイイ独立への賛歌のようになっています
イズラエルがハワイイアン・ルネッサンスにもたらした影響は
音楽的と政治的の両面にあったのではないかと思いますが
彼にとってハワイイ文化を守り抜くことにはどのような意味があったと思われますか?
また、それはどのくらい重要なことだったのでしょうか

J:とても重要でした
我々は政治と宗教を音楽から切り離して語りがちですが
彼の場合は両方にかなり強い思いを抱いていました
しかし体格の問題で動くのが不自由だったので
同じ思いを持つハワイイの人たちと一緒に‘93年のデモンストレーションなどに出かけることはできませんでした
王権転覆100年のオニパア・イベントがイオラニ宮殿で催されたときなどです

でもたくさんの人と電話で話しハワイイ文化を守るために断固として引き下がるなと励ましていました
その人々もイズラエル自身も、自分達の将来に関して発言したかった
それがイズラエルの真意だと思います

ハワイイの人々が貢献すべき豊かさを守ること
そして確かにハワイイの人たちは
世界に分け与えられる多くのものを持ち合わせているのです

 

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彼がハワイイ独立について、どう捉えていたのか私にはわかりませんが
確実にアメリカからは抜け出そうとしていました

当時、その考えは斬新でした
イズラエルは恐らく、そして当時のハワイイの人たちにも言える一般的なことだと思いますが
皆、失った土地や奪われてしまった物事に対して発言がしたかったのだろうと思います

でもイズラエルは誰に対しても意地の悪いことはしませんでした
ハワイイアンを教会のシステムに押し込めた白人宣教師の移住者たちのことも非難しませんでした
そのことを苦々しく思ってはいませんでした
彼にとってはそれもまた、自分の歴史のひとつだったのです

 

W:そうだったのですね。それが音楽に痛烈に表れていると思うのですが

J:そうだと思います
彼は本当に特別な人でした

いつも訊かれる質問があります
「次のイズラエルは誰だと思いますか?」と

正直、彼のような人物が現れるかどうかはわかりません
イズラエルはよく「僕は完全にハワイイアンだよ、スコシちょびっとだけ日本人だけどね」と言っていました
でも彼こそが生粋のハワイイアンに最も近い存在だったと思うのです

混じり気のない純粋なハワイイのメッセージをシンプルに
パワフルに世界へと送り込みました

そして20年が経った今でも
イズラエルがこのアルバムの曲を通して発信したメッセージに
世界は応え続けているのです

 

(INhonolulu 掲載記事 翻訳・写真仕様の許諾を得て掲載している)

 

 

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