スカイラーク・ロゼッティーさんが亡くなった…彼女が果たした功績とは

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ハワイイ放送界のレジェンド、ハワイイが生んだ最高のラジオDJ

Jacqueline Leilani “Honolulu Skylark” Rossetti
ジャクリーン・レイラニ・ホノルル・スカイラーク・ロゼッティー

通称 ”ホノルル・スカイラーク”
ハワイイ放送界のレジェンド、ハワイイが生んだ最高のラジオDJ
そしてハワイイ音楽界のご意見番であり、母親的な立場でもあった

2019年3月20日(現地時間)
Jacqueline Leilani “Honolulu Skylark” Rossetti
ホノルルのカイザー医療センターで
腎不全のため亡くなった
まだ65歳と聞き、驚いた

彼女の成し遂げてきたことを知っていたので70台半ばだと思っていた
年齢を知り、まだやっていただきたいことがあったのにと残念に思う

1971年にカメハメハ・スクールのホノルル・カパラマ校を卒業後
サンフランシスコ市立大学でアートを専攻し、友人のラジオ局で後の職業となる勉強を始める

故郷に戻ったロゼッティは、ホノルルのKNDI-AM局で働きはじめ
その後、キモ・カホアノや故クラッシュ・ケアロハなどがいた
ホノルルのKCCN1420-AM、昼間の顔(声)となった

ハワイの飛行機の名前に自身をなぞらえて
「ザ・ホノルル・スカイラーク」と名乗り
後に、短く「スカイラーク」としたといわれているが
もちろん「雲雀」の美しい鳴き声にもかけていることは間違いない

『ナ・ホク・ハノハノ・アワード』を創設

そして、彼女のハワイイ音楽界に対する最大の貢献は
1978年にKCCN1420-AMのカホアノとケアロハと共に
ハワイの音楽とミュージシャンを称える
『ナ・ホク・ハノハノ・アワード』を創設し、成功させたことだ

1970年台後半は、ハワイイ音楽とくにトラディショナルは不遇の時代だった
ハワイイ音楽を絶やさずに、人気あるものにするために三人が始めた
『ナ・ホク・ハノハノ・アワード』はハワイイのグラミー賞といわれるようになる

1982年には、音楽関係者の団体
”Hawai‘i Academy of Recording Arts” (HARA)の創設に尽力し
『ナ・ホク・ハノハノ・アワード』の運営はHARAに引き継がれ発展していく

ナ・ホク・ハノハノ・アワード
”Hawai‘i Academy of Recording Arts” (HARA) 生みの母なのだ

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ハワイイのスーパースター達を世に送り出す!

ロゼッティは、ラジオ番組を通して、
サンデーマノアブラザーズ・カジメロマカハ・サンズ・オブ・ニイハウなど
ハワイイのスーパースター誕生に不可欠な存在だった

IZがいたマカハ・サンズ・オブ・ニイハウを世に送り出すきっかけも彼女だ
1975年チャリティー・コンサートに出ていた無名の彼らを見初め
カパフルにあったクラブ「アップタウン・ヨーコ」に推薦する
そこで彼らの人気は出始めた

そして、「アップタウン・ヨーコ」のプロデューサーでもあった
ビル・ムラタポキ・レコードとの契約話をまとめ
1976年ファースト・アルバム”No Kristo”へと続く

ロゼッティーはスラック・キー・ギターのレジェンド『山内雄喜』とも繫がる
日本人で初めてKCCN1420-AMに出演したのは山内雄喜だそう
スラック・キー・ギターを弾くめずらしい日本人がいると
ロゼッティーが番組出演を依頼した

番組でライヴ演奏をしたところ、電話がかかってきた
電話の主は、アンティ・アリスこと「アリス・ナーマケルア」
ロゼッティーに「今弾いていたのは本当に日本人か?」と聞き
「合ってみたい」となったそう
その後、山内氏はアンティ・アリスと行動を共にし多くの教えを得たという

ハワイイを代表する女性 唯一無二の存在

甘い声と非の打ち所のない進行をするロゼッティーには
司会者やCMナレーションの仕事が多く舞い込んだ

キモ・カホアノは彼女の死後インタビューに答えて
「あんな声を持つ人は、他にはぜったいいないよ」
「真似をする人はいっぱいいるけど、彼女こそオリジナルのスカイラークだった
 他に、彼女みたいな人が出てくることはないだろう」
「彼女は、“これは人々が知るべきだ”と思えば、恐れずに表現した
 決して後ずさりすることはなかった、スカイラークになろうとしていたんだ
 とても気高い女性だった」と語っている

彼女自身もナ・ホク・ハノハノ・アワード
”Dennis Pavao””Darlene Ahuna”ライナーノーツ
1987年1996年に受賞している

そして
2011年には
”Hawaii Academy of Recording Arts Lifetime Achievement Award”を受賞

さらに
2017年、カホアノ、ケアロハと共に、
「Hawaiian Music Hall of Fame(ハワイ音楽の殿堂)」入りした

音楽分野にとどまらず
1984年には「ハワイイアン・ウーマン・オブ・ザ・イヤー」
1991年には「ブロードキャスター賞」にも輝いている

多くのスターを見いだした慧眼と未来を見る目

ロゼッティーはハワイイアン音楽、守旧派の人ではなかった
若いミュージシャン達が生み出す新しいジャンル
たとえば…1999年”Gerard K. Gonsalves”
“acoustic Hawaiian rock”と呼んだジャンルのアルバムをリリース
他のラジオ曲では、オンエアーされないかったが
彼女は番組で紹介した
そして、彼らのアルバムはナ・ホク・ハノハノ・アワードを受賞した

時代は戻るが
1990年ハワイイで大流行したのが”ジャワイイアン”
今では、“ハワイイアン・レゲエ”と呼ばれている
当時、伝統的なハワイイ音楽愛好者からすれば異端な音楽だった

しかし、彼女はオールジャワイアン・フォーマットの新しいラジオ局
『KCCN FM 100』を作るために奔走する
この、オール・レゲエの新しい局は
島のレゲエ・ファンに熱狂的に受け入れられ
その年、年間人気No.1のラジオ局となった
そして今もハワイイで人気のラジオ・ステーションだ

メリー・モナーク・フェスティバルの顔でもあった

ロゼッティーは1992年ビッグ・アイランドのヒロに移る
ラジオの仕事を続け“KWXX-FM”、後に“KAPA-FM”で働いた
そして、ハワイイ文化にもっと深くコミットする

メリー・モナーク・フェスティバルでは
”KITV”の番組で、カホアノと一緒にホストを担当
後に、現地会場で水曜日のホーイケ・ナイトの司会を務めた

今年のメリー・モナーク・フェスティバルでも
ロゼッティーと“KWXX-FM”“クエフ・モーガ”
ホーイケ・ナイトの司会を務めることになっていた

「アンティ・スカイラークの声で私は育ちました」
二度のグラミー賞受賞者カラニ・ペアはインタビューで答えている

 

彼女の想いをは受け継がれていく

そして入院中も
今後のメリー・モナーク・フェスティバルについて
ナ・ホク・ハノハノ・アワードの今後について
いろいろ考えていたという

彼女は、『クイーン・リリウオカラ二・フェスティバル』
毎年オアフ島ワイマナロで行われている
『ギャビー・パヒヌイ・カニカピラ』のMCも務めていた

これから、メリー・モナーク・フェスティバル
ナ・ホク・ハノハノ・アワードなどなど…
彼女が心血を注いだイベントが目白押し
どのイベントでも彼女の多大な貢献に感謝する声であふれるはずだ

ミュージシャンではない
彼女の役割はハワイイ音楽界の中で非常に大きい
ハワイイ音楽の語りべとして更なる活躍をしていただきたかった

Jacqueline Leilani “Honolulu Skylark” Rossetti
ハワイイ音楽ファンは
この名前を忘れずに、心に刻んでおきたい

また、話を聴いておくべき人が逝ってしまった…
時間は残されていないのかも知れない…

ご冥福をお祈りいたします
Honolulu Star-Advertiser

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