Uncle S Blog : 5月20日は ”IZ” 55回目の誕生日!もし…彼がまだ元気だったら…何を歌ってくれただろう…

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IZの誕生日
書き始めたら長くなってしまった
1959年5月20日
ホノルルのクアキニ病院で男の子が生まれた
やがて、ハワイイの音楽を世界に伝えることとなる
大きなミュージシャン
イズラエル・カアノイ・カマカヴィヴォオレだった

 

Z

 

身体の大きな父ヘンリーはイズラエルを見て「小さいな」と言った
母のエヴァンジェリンは100%のハワイイアン

ちなみに1959年8月はハワイイがアメリカ50番目の州となった年だ

僕は今、イズラエル・カアノイ・カマカヴィヴォオレについて
ダン・コイスが書いた「FACING FUTURE」を
出版するための作業をしている

最終校正の一つ前ぐらいの直しを悶々とやっている
何とか秋までには出したいと思っている

その中に書かれているイズラエルについて
少しだけ書いてみる

兄のスキッピーらとマカハ・サンズ・オブ・ニイハウとして
活動を始めたのは1974年のこと
イズラエルは15歳だった

イズラエルは6歳からウクレレを弾き始め
ウクレレを片時も離さなかったらしい

11歳でサンセットクルーズのヨットでスキッピーと
演奏をして稼ぐようになった

1971年頃には叔父でサンズ・オブ・ハワイイに参加していた
モエ・ケアレについてライヴ会場に行き
エディー・カマエやギャビー・パヒヌイ達レジェンドから可愛がられ
一緒にステージで演奏していた

早熟な天才少年だった

マカハ・サンズ・オブ・ニイハウは人気グループになった
しかし、兄のスキッピーが28歳でこの世を去ると
イズラエルの人生も動き始める

結婚し子供も授かるが
酒、ドラッグ、暴食に耽るようになり
肥満も限度を超えるようになった

スキッピーが亡くなり
マカハ・サンズ・オブ・ニイハウを抜けるまでが
イズラエルの生涯で身体的、経済的に最悪の時だったようだ

グループ脱退後、弁護士 ロバート・フェリーノ
音楽プロデューサー ジョン・デメロと出会い
イズラエルは変わり始める

自らの余命を感じたかのように妻と娘の将来を案じ
音楽活動に打ち込み始めた

そして、ジョン・デメロのアドバイスのもと
ハワイイで最も売れたアルバム
「FACING FUTURE」は作られた

このアルバムは1993年にリリ−スされたが
その当時イズラエルは生活保護で暮らしていた

1997年6月にイズラエルは亡くなった
彼の体重は450キロを越えていた

彼の死をハワイイ中の人が悲しんだ
彼の遺体が置かれたキャピタルビルには
1万人の人々が集まり彼の死を偲んだ

「FACING FUTURE」はハワイイでは大ヒットしたが
それはローカルの出来事だった

しかし、2000年にアメリカ本土で
”Somewhere Over the Rainbow”がコマーシャルに使われると
注目を浴びる

2002年にはドラマ「ER緊急救命室」で流れ
全米での人気が決定的なものとなった

そして、今でもこのアルバムは売れ続けている

人気になった曲
”Somewhere Over the Rainbow”と
”What a Wonderful Word”
この2曲は「FACING FUTURE」のために録音されたモノではなかった

5年前にイズラエルが自らレコーディング・スタジオに行き録音したものだった
歌詞が原曲とは違うままにリリースされた理由もわかった

彼が亡くなり17年が過ぎる
未だにハワイイで彼のアルバムを越えるヒットはない
あの声は今も皆を捉えて放さない

イズラエルの評価は時間が経つほど高まっていく
ジョン・デメロは今でもイズラエルのことを語り続ける
http://8011web.com/interview/facing-future-inhonolulu/

”IZ”がもし…
生きていたなら…
どんな歌を聴かせてくれたのだろう

考えてもしょうがないことだが…
人生はその死も含めてのもの
もし…などはないのだから

[youtube]http://youtu.be/Z26BvHOD_sg[/youtube]

 

 

 

 

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