■インタビュー■ ”ケオラ・ビーマ” スラック・キー・ギター・マスターが語るハワイイ音楽 Vol.1 

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ケオラ・ビーマのインタビューを2回に分けてお送りする
ハワイイには音楽やフラで
名門ファミリーと呼ばれる一族がいる
その中でも特別な存在がビーマ・ファミリーだ

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そのルーツは13世紀までさかのぼれるそうだ
作曲家、シンガー、フラマスターとして
伝説となっているヘレン・デシャ・ビーマを祖母に持つケオラ・ビーマは
スラック・キー・ギターのマスターでリーダーと言える

一子相伝と言われていたスラック・キー・ギター教則本を
1973年に世界で初めて出版
スラック・キー・ギターを表舞台に引っ張り出しその裾野を広げた

1978年、サーフ・ムービー『ビッグ・ウェンズデイ』に使われた
「オンリー・グッド・タイムス」がヒットした

同曲が入ったアルバム「ホノルル・シティー・ライツ」もハワイイ最大のヒットとなった
その後、アルバムの表題曲”ホノルル・シティー・ライツ”はカーペンターズを始め
世界の多くのミュージシャンにカバーされケオラ・ビーマの名は世界に知れ渡った

ケオラは妻のクム・フラ”モアナ”と継承した
ハワイイの文化伝統を世界に伝えながらも

音楽的にはハワイイというジャンルに縛られること無く
挑戦的に活動している

ギャビー・パヒヌイなど数名しかいない
スラック・キー・ギター・マスターの一人だが
ギャビーなどのバックヤード・ミュージックとは違う
ノーブルで美しい旋律を聴かせてくれる希有な存在だ

今回はコットンクラブを初めとするライヴのために来日したケオラが
藤沢「CANOES GRILL&BAR」で行ったワークショップ後に約Ⅰ時間ほど
大好きな日本酒を口にしながらリラックスした雰囲気でインタビューを行った

まずは、ケオラ自身についての話しを聞いた前半をVol.1としてアップする

後日、スラック・キー・ギターにフォーカスした後半を披露する予定だ
じっくり読んでいただきたい!

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Keola Beamer (Keolamaikalani Beamer) : 1951年2月 ホノルル生まれ
カメハメハ・スクール
Goddard College(Vermont) , Univercity of Hawaii

インタビュー&Photo :すずきしゅう 通訳:遠藤裕子
協力:ノバック、CANOES GRILL&BAR Fujisawa、Chieko Sekiguchi
Keola Beamer Interview / November 18, 2013 at CANOES GRILL&BAR Fujisawa

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ビーマ・ファミリーそして音楽との出会いについて

今日のWSの印象はいかがでしたか?

とても良かったですよ
皆さんとても熱心でした

教えたいと思っていたことが、伝わったと思います
話をよく聞いてくれましたし、その内容も理解してくれていたようです
とてもよい生徒さん達でした

まずケオラさんご自身について教えていただけますか?

私のファミリーの歴史は13世紀にまで遡ることができます
王家、アリイの血筋が流れています

私の家系では、常に女性が文化を担ってきていました
男性は、”まぁ、男というだけです(笑)”

女性がフラや言葉、音楽を伝え継承してきました
私はそのような素晴らしい家族がいて恵まれていると思っています
私自身の活動は彼女たちをお手本にしているのです
我が家の女性達にはとても感謝しています

どのように音楽を始めたのか教えてください

家庭の環境があって自然に始めるようになりました(笑)

ハワイでは、子どもの頃からウクレレを弾き始めます
私はすぐに、より深い音を欲するようになって
もっとおもしろい音楽を求めるようになりました

それでギターを始めるようになったのですが
それは9歳の頃でした

私の家族は、音楽が全てです
みんなが集まると、そこにはいつも音楽がありました
音楽とは聴くものではなく、私たちにとっては創るものなのです

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あなたにとって最初の音楽の先生は誰でしたか?

私の先生は女性で、アリス・ナマケルアです
彼女が最初で最も影響を受けた先生のひとりです

(*Alice Namakelua : 1892年生まれ 
 ハワイイ音楽界のゴッドマザー的 作曲家、シンガー、スラック・キー・ギタリスト
 山内雄喜氏から聞いた話 :
 1970年代に山内氏はアリスの家に下宿していたことがある 
 ある日、ギャビー・パヒヌイ、ジェノア・ケアヴェのライヴに行ったのだが
 なんと、アリスは客席から演奏中の二人にだめ出しをしたそうである
 それほどの存在だったそうだ)

彼女と私との間には約束がありました
「私があなたを教える、でも時がきたら今度はあなたが他の人を教えるのよ」
だから私は、自分の活動の中で人に教えることを大切にしてて
彼女の優しい教え方を忘れないようにと思っています

彼女はいつでも愛情深い人でした
だから私も親切に教えたいと思っています

音楽を習うことは最初から楽しいことでしたか?

はい!
楽しかったですね
音楽が最初から身体に入ってきたのです
前世でも何らかの形で音楽に関係していたのではないかと思うくらいにね
ストンと手の中に落ちてきました

デビュー・アルバムとHonolulu City Lights

デビュー・アルバムは1972年ですが、少し遅くなかったですか?

当時、レコーディングをするには自分が音楽的にパワーがあるという
根拠のようなものを証明しなくてはなりませんでした
なぜなら当時のレコーディングにとてもお金がかかったからです

そのため、自分を適切にリードしてくれるプロデューサーが不可欠でした
あのときは、6ヶ月もリハーサルをやりました

レコーディングに12時間しか使えないとわかっていたからです
それがプロデューサーとの約束でした
1曲で12時間ではなく、アルバム全部の録音で12時間です!
当時のミュージック・ビジネスは今と全然違うものだったのです

自分のスタジオを持つようになってからはからは
自分自身の音を開拓していくことができるようになりました

生徒に教える時には、自分の演奏を録音して聞くことを奨めています
そうすると、それぞれが自分のギターの「声」を見つけられるからです

私は、いわゆる「ケオラ・ビーマーの世界」というものに興味がありません
生徒が私のように弾くことに興味がありません
そんなのは退屈でしかない

いつの日かその人ならではの「声」を見つけて私に聴かせ欲しい
私にとってはそれが楽しみなのです

デビューアルバムに
「Hawaiian Slack Key Guitar in the Real Old Style」と

タイトルを付けた意味や思いを教えてください?

このアルバムは我が家の遺産のようなものです

私の祖父はスラック・キー・ギターを弾いていました
祖父が私に教え、私がまた他の人たちを教える

あのアルバムは本当にオールド・スタイルなのです
誰もがいつまでも若くいられるわけではありません
いつか年老いて亡くなってしまう

私や次の世代がその音楽を維持していく番になるのです
私に音楽を教えてくれた人たちはもうみんな亡くなってしまった
私もそうやって生き
死ぬまでハワイイのアロハと音楽を生かし続けていくのです

そんな想いがありました

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コットンクラブでは「Beauty of Maunakea」を聞かせていただきましたが
デビューアルバムに入っているこの曲は思い入れが強い曲なのですか?

私が作った曲で最も好きな曲の一つです
家族との強いつながりを感じられる曲なのです
モアナ(奥さん)は私の母からフラを教わりました

母はいつも私たちと一緒に演奏していました
フラを踊りながら、曲のストーリーを教えてくれていたのです

だから母とはすごく近い感性があり、彼女が泣くと私も泣く
本物の音楽、本当の人々、本当の場所
私たちの音楽には、一切の偽りがありません
見せ掛けの音楽ではありません

私にとって「さぁ、ハワイアン音楽をやりましょう!」ということは
ばかげているとしか思えないのです
だって私の音楽は、私たちの生活そのものを語っているのですから

世界初のスラック・キー・ギター教則本

スラック・キー・ギター初めての教則本を作ったのは1973年ですね
自分がやらなければいけないというモチベーションは何だったのですか?

旅行の話をしても良いですか(笑)
確か19歳の頃だったと思いますが、家族でオアフ島を訪れました
その時にある音楽を耳にしたのです

音を頼りにしてマンゴーの木の中を歩いて行くと
ある年老いたハワイイアンの男性が
スラック・キー・ギターを弾いていたのです

とても美しい音色でした
まるで空中を漂う絹のような音に聞こえました
驚くほどきれいな音だったのです

我が家ではいつもジャンガジャンガ・・・というフラ音楽だったので
そんな音を聴いたことがありませんでした

甘いアコースティックな音が本当に美しかったので
私はその男性が見える場所に腰を下ろしました
そのときに、暗闇の中で音を立ててしまったのでしょう
彼は演奏を止めてしまいました

私の顔を見つめているのを感じました
そして後ずさりし、くるりと背を向け去ってしまったのです

私は心が傷ついたような感覚に陥りました
なにか悪いことをしてしまったのだろうか?

その出来事を母に言うと
母は「いいえ、なにも悪いことはしていないのよ
ただね、あなたがその人の家族ではなかったというだけのことなのよ」答えました

私は、あんなにも美しいものに拒まれたという感覚を今でも忘れることができません
とても傷つき
子ども達には同じような思いをさせたくないと思いました

そこで、私は家族に相談してみました
スラック・キー・ギターの教則本を作るアイデアを

「私にはやりたいと思っていることがあるが
  それをすれば批判を受けることになると思う」と告げると

家族も
「それは批判を受けるだろう!」と言いました

でも母や家族は、それが子ども達が演奏をするのに役立つことなら
批判は止むはずだと言ってくれたのです

結果はその通りでした

子ども達がクプナのために演奏すると
クプナはそれを美しいと感じます
批判は止みました
うれしかったですね
夜、眠りにつくときに良いことをしたんだなと思えるようになりました

繰り返しになりますが一子相伝というタブーを犯すことで
周囲からの障害など無かったのですか?

そうですね、1つありました

出版したいと思ってくれる人がいなかったのです
スラック・キー・ギターの教則本が何なのか
誰もわかっていなかったのです

当時の彼女が優しい子で、大変な作業を一緒にやってくれました
貼り付けたり、コピーしたり
そうやって本を作りました

彼女と私で手作りしたので、私たちが本当の意味で出版者です

当時私はハワイイのミュージック・ストアーで教えていたのですが
そこのオーナーが私のことを気に入ってくれて
「お店で本を売ってみたら」と言ってくれました

売り始めた翌週に彼から連絡があり「もっと持ってきてくれ」と言われました
すぐにハワイイだけで何千冊も売れました
だから私たちは一生懸命に本を作りましたよ(笑)
そうやって出発しました

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その後スラック・キーを取り巻く環境というのは変化しましたか?

すごく変わりましたよ(笑)
自分自身を世界に向けて解放することは
必ずしも心地の良いことばかりではありません

とてもスラック・キー・ギターと言えないようなものを
スラック・キー・ギターと呼んでいたり
とんでもない作品がヒットしたりするのを見るとね

私にとってスラック・キーのマスターと呼べるのは
私自身を含めて5人だけです
ハワイに「スラック・キー・ギター・マスター」と
呼ばれている人たちはたくさんいますが
私は認めていません
何十人もいるわけがないのです

ハワイのスラック・キー・ギタリストの中で
よく交わされる議論なのですが…

それは
スラック・キー・ギターにはブルースのような
ギターのフォームがありません

なので、この曲はトラディショナルなのかコンテンポラリーなのか
これはブルースとは違う、いやブルースだ、そうじゃないとか…(笑)
そういう議論は年中起きています…

でも私は自分の音楽を精一杯やっていくしかないですよね
私たちは博物館の展示物ではないのですから(笑)

再びHonolulu City Lights の話し

”ホノルル・シティー・ライツ”
“オンリー・グッド・タイムス”が1972年にヒットしましたが
そのころのエピソードがあれば教えてください

ホノルル・シティー・ライツはハワイイの音楽史で最も売り上げたレコードです
同じ年には” IZ ” のオーバー・ザ・レインボーも発売されましたが
私たちの方が当時は売れたようです

ホノルル・シティー・ライツを書いたのは
ワーナー・ブラザーズの映画「ビッグ・ウェンズデー」の仕事で
メインランドに出発するときのことでした

家族や愛する人と、キスして、バイバイして、機上の人となる
夜の便で、ハワイの島々が小さくなって、深いベルベットブルーの太平洋が見える
とても意味深い光景でした

私のように故郷を愛する人たちなら、ハワイイから旅立っても
いつか必ずハワイイに戻ってこようとするでしょう
ハワイイの人には、旅に出ても
いつか必ず戻ろうとする力が働きます
だってここは美しいところですからね

この曲はそうやって生まれました
私自身が体験した旅での思いを歌にしました

映画「ビッグ・ウェンズデー」は友達3人の友情がテーマです
この映画の作曲家である彼と私と弟は仲の良い友達になりました
ラッセルという奴です

(*良く聞き取れなかったのだが
 音楽を担当したベイジル・ポールドゥリスの ことだと思われる 
 ”オンリー・グッド・タイムス”の作曲者でもある
 そしてこの曲はサントラ盤では” Three Friends Theme ” の題がついている
 ベイジル・ポールドゥリスは2006年にガンで亡くなっている)

このとき私は何故か予感がしたんです
もう三人で仕事をすることははないだろうと
本当にそれは当たってしまいました

彼は10年ほど前に肺がんで亡くなりました
愛煙家だったのです
まぁ…ともあれ…
3人の友達というテーマは私たちの友情そのものだったのです

”ホノルル・シティー・ライツ”はカーペンターズにカバーされたり
大ヒット曲になりましたがそんな予感はありましたか?

そうですね、カーペンターズ、彼らもホノルル・シティー・ライツをやりましたね

大ヒットするなんて…(笑)全く思っていませんでした!
もしわかっていたら、もっとちゃんと準備していましたよ(笑)!

先日コットンクラブのライヴで”ホノルル・シティー・ライツ”のメロディーは
自然に湧いてきたとおっしゃっていましたが、もう少し具体的に説明していただけますか?

アーティストっていうのは、身を譲る術を心得ているのではないかと思うのです
本物のアーティストに与えられる天賦のようなものでしょうか
その人自身のことではなくて、その人が書く物語のことです

私にはものすごくたくさん書きたいことがあって
書き出せばきっとこの部屋いっぱいくらいになるでしょう
音楽を書き上げると、すごくおもしろい予期せぬことが起きるのです
音楽は人を介して生まれてくると思っています

物語を書くことができる人は、技術を持っています
それを、どうすれば良いのかもわかっている人たちです
しかし、それだけでは良い物語は書けません
他の誰かがペンの運びを助けてくれたりするのです

そういうことが起きるのです

様々なジャンルの曲を作り演奏していますが
トラディショナル、スタンダード、ジャズ、カバーなど
何かチョイスする基準はあるのですか?

アーティストのそのときの状況によるのではないかと思います
私がまだ小さかった頃、よくゲームで遊んでいました
それも私です

今はもうゲームで遊ばなくなりましたが、それでも私は私です
そういうことなのです

もう少しわかりやすくたとえると「旅のようなもの」かなと思います
「川のようなもの」かな(笑)
いつでも流れている川の中に自分の居場所がある
だからアーティストのそのときの状況によるんだろうと思います

Vol.2 に続く [clink url=”/?p=2572″]

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